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アリスとボブが、空を介して話す世界

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 量子暗号通信の地平を大きく押し広げつつある「自由空間光通信」という技術を取り上げ、アリスとボブの物語が地上から宇宙へと拡張されていく現在地、そしてその先にある安全保障と平和主義のせめぎ合いについて考えてみたいと思います。自由空間光通信(Free-Space Optical Communication、FSO)とは光ファイバーのような物理的なケーブルを使わず、大気中や宇宙空間そのものを通信路としてレーザー光で情報をやり取りする技術であり、電波のかわりに光を使うことで桁違いの大容量通信が可能になり、しかも電波と違ってジャミング(電波妨害)を受けにくく、ビーム幅が極めて細いため傍受も困難——という特性を持っており、地上ではビル間の高速無線回線や災害時の臨時通信、さらには低軌道衛星コンステレーション同士の衛星間通信、そして地上と衛星を結ぶ通信、月や火星といった深宇宙探査機との通信——あらゆるレイヤーで自由空間光通信は次世代インフラの中核として位置づけられつつあります。この自由空間光通信が量子暗号通信と組み合わさったとき革命的なことが起こり、これまで地上の光ファイバーで結ばれていたアリスとボブの通信は距離が伸びるほど光子が減衰し数百キロが実用的な限界でしたが、衛星を中継すれば宇宙空間という極めて減衰の少ない通信路を介して大陸間・地球規模で量子鍵を配送できるようになり、すでに2016年に中国は世界初の量子科学実験衛星「墨子号(Micius)」を打ち上げ、北京−ウィーン間という7,600キロを超える距離で量子鍵配送に成功し、衛星量子暗号通信の時代を切り拓きました。アリスとボブはもはや同じ国の同じ都市にいる必要はなく、地球の裏側にいるパートナーと空を見上げて衛星越しに「絶対に盗聴されない通信」を交わせる時代に入りつつあり、EU・米国・日本もそれぞれ衛星量子暗号網の構築を急ぎ、東芝・NICT(情報通信研究機構)・JAXAなどがこの分野で研究を重ねています。しかしここで再びデュアルユースという問題がより深刻な形で立ち上がってきて、自由空間光通信が持つ「ジャミングに強く、傍受されにくく、極細のビームで狙った相手にだけ届く」という特性は民生用の長所であると同時に、軍事的にはこれ以上ない魅力的な特性であって、戦闘部隊間の指揮通信、無人機(ドローン)の制御、衛星と地上司令部の連絡、潜...

絶対に盗聴されない技術が、武器に変わるとき

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  前回まで自民党と公明党が国会閉会中に強行している武器輸出解禁の与党協議、そしてその受け皿となりうる東芝などの防衛産業について書いてきましたが、今回はもう一歩踏み込んで、東芝が世界の最先端を走る「量子暗号通信」という技術を切り口に、デュアルユース(民生・軍事両用)技術の問題、官民癒着、そして憲法第九条の精神との関係を考えてみたいと思います。量子暗号通信(QKD:Quantum Key Distribution)とは量子力学の原理を利用して理論上「絶対に盗聴できない」通信を実現する技術であり、光子の量子状態を使って暗号鍵を共有するため第三者が観測しようとすれば必ず痕跡が残り盗聴がただちに検知されるというもので、東芝はこの分野で長年研究を重ね、量子ドット単一光子源を用いた長距離量子暗号通信の実用化において世界をリードしてきた企業の一つであり、ケンブリッジの研究拠点を中心に英国・欧州・日本で実証実験を重ね商用サービスにも乗り出しているのですが、これは本来、医療データや金融取引、行政情報といった機微なデータを守るための極めて平和的で価値のある技術であるはずです。しかしここに大きな問題が横たわっており、量子暗号通信は典型的なデュアルユース技術——民生にも軍事にも使える技術——だという事実があり、絶対に盗聴されない通信は市民の医療情報を守ると同時に軍隊の作戦指令を守ることにも使え、外交電文を保護する技術はそのまま戦闘部隊間の暗号通信にも応用可能であって、米国・中国・EU・日本——量子暗号は今や各国が国家安全保障の観点から熾烈な開発競争を繰り広げる「戦略技術」になっており、武器輸出解禁の与党協議が進む中で問われるのは単に「殺傷能力のある武器」を輸出するかどうかではなく、その武器を支える先端技術——量子暗号、AI、半導体、センサー——がどこまで「武器」として扱われるのかというより広い射程の問題なのです。東芝が誇る量子暗号技術がいつのまにか防衛装備庁の管理下で「安全保障関連技術」として位置づけられ同盟国との軍事協力のパッケージに組み込まれていく——そのシナリオはもはや絵空事ではなく、ここで前回も触れた「官民癒着」の構造が改めて重い意味を持ってきて、防衛省・経産省・防衛産業企業・自民党国防族議員——この緊密な結びつきの中では本来は民生用に開発された技術も政策的に「防衛技術」へ...

「MRIには映らない、共鳴する音について」

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 精神科の診断は単一の検査で決まるものではなく複数の情報を統合して導かれるもので、MRIやCTは脳の器質的な異常(腫瘍、梗塞、萎縮など)を除外するために使われ、EEGはてんかんや意識障害、睡眠関連の異常を見るのに有用ですが、これらは「精神疾患そのもの」を映し出す検査ではなくあくまで身体的要因を除外したり補助的な情報を得たりするためのものであり、その上でDSM-5(米国精神医学会)やICD-10/11(WHO)といった操作的診断基準に沿って症状の種類・持続期間・生活への影響などを評価し、医師の問診・観察・心理検査の結果を加えて総合的に診断名が形作られていきます。一方で「病は気から」という言葉に象徴されるように、中国伝統医学では心と身体を切り離さず、気・血・水の巡りや五臓六腑のバランスとして人間を捉えており、西洋精神医学が症状をカテゴリーに分類していくのに対し、東洋医学は全体性と関係性を重視するという対比は、人間理解の補完関係として今もなお大きな意義を持っていると思われ、診断は短期的視野で見れば「今の症状を分類する」作業ですが、長期的視野で見れば「その人がどう生きていくか」を支える出発点に過ぎず、診断名がついた瞬間に人が定義されるわけではなく、むしろそこからが本人と医療者の対話の始まりだと言えます。そして「私は共感する、皆と共鳴する音が聞こえる」という言葉については、比喩としての表現なのか、それとも実際に音や響きを感じるという感覚的な体験についてのお話なのか、受け取り方によって応答も変わってくるので、もし差し支えなければもう少し聞かせていただけると嬉しいのですが、共感力が高い方が周囲の感情を「音」のように感じ取るという比喩であれば、それは繊細さの表れとして大切にされるべきものだと感じます😁          

金で動く政治に、もう用はない

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  選挙のたびに思うことがあります、「この一票に本当に意味があるのだろうか」と。選挙が近づくと自民党の人たちが家に挨拶に来て、公明党の人たちも投票してください投票してくださいと頭を下げて回り、その姿だけを見れば誠実そのものに見えなくもないのですが、いざ蓋を開けてみればどうでしょう、政治資金パーティーの裏金問題で名前が挙がってくるのは、まさにその挨拶に来ていた人たちなのです。マニフェストに掲げた約束はいったいどこへ行ったのか、実行された形跡はほとんど見当たらず、口ばかりが達者で行動が伴わない——そう感じている有権者は決して少なくないはずで、自民党は金で投票数を稼いでいると言いたくなる場面があまりにも多すぎて、裏金、パーティー券、不記載、虚偽記載といった言葉の数々は、もはや単発の不祥事ではなく構造そのものが腐っているのではないかと思わせ、金で動く政治は有権者一人ひとりの信頼を踏みにじる行為に他ならず、応援する気にもなれませんし、こうした実態を知ってしまうと選挙に行く気力さえ削がれていくのです。横浜市政にも似たような構図を感じていて、かつての高秀市長も挨拶に来ればこちらの言いなりでしたが、その理由は単純で、過去に自民党の支部長を務めていた縁があったからであり、私の祖父は地域のみなが暮らしやすくなるようにと考えて支部長を引き受け、多くの金を動かした結果として政治資金をめぐって逮捕され、保釈金を払って釈放されたという過去もあり、今思えば時代の慣行とはいえ決して褒められたことではないものの、当時の祖父には祖父なりの「公のため」という信念があったのだと思います。ひるがえって今の政治家たちはどうでしょうか、公のため、地域のため、国のためと胸を張って言える行動を本当に取っているのか甚だ疑問で、正直なところ「おじさん達、何やってんの」という一言に尽き、挨拶に来るときは深々と頭を下げ、当選すれば裏金の名簿に名前が載り、マニフェストは絵に描いた餅、説明責任は果たさず、不起訴になればそれで終わり——これで国民に「政治を信じてください」と言える神経が私にはどうしても理解できません。政治への信頼は言葉ではなく行動でしか積み上がらず、一度失われた信頼を取り戻すには想像以上の時間と誠実さが必要ですが、それでも棄権してしまえば現状を追認することになってしまうので、腹立たしさを抱えながらも見続け...

ありのままで、ただ生きる

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 正直でいたい、ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろうと思うことがあって、人と話すとき、文章を書くとき、何かを誰かに見せるとき、気づくと「こう見られたい自分」を組み立てていて、良く見られたい、嫌われたくない、傷つきたくないという気持ちが少しずつ本当の自分から自分を遠ざけていく感覚があったけれど、最近になってやっと気づいたのは、繕った言葉は誰の心にも届かなくて、届くのはいつもぽつりとこぼれた本音のほうだということで、だから心に正直に表現するというのは何でもかんでも口に出すことじゃなくて、自分の中にある感情を、嬉しいも寂しいも悔しいも好きも苦手も、ちゃんと「ある」と認めてあげることなんだと思っていて、聞いてもらえなかった感情は形を変えて出てくるから、まず自分が自分の声を聞いてあげることがすべてのはじまりで、ありのままというのも開き直りじゃなくてもっと静かなもので、得意なことも苦手なことも誇れる部分もまだ恥ずかしい部分も全部ひっくるめて「これが今の自分です」と差し出せること、完璧じゃないことをわざわざ謝らないこと、ただそれだけのことで、特別なことをしなくていいから、朝起きてごはんを食べて誰かと話して好きなものを見て眠る、その普通の一日が積み重なっていつのまにか自分という人間になっていく、その普通に過ごせる日がいちばん尊いということに気づけたことが自分にとっては大きな変化で、だからこれからもうまくいく日もしょぼんとする日も隠さず飾らずありのままの自分をここに置いていきたいと思っていて、読んでくれている誰かが「ああ、自分も同じだな」と少しだけ肩の力を抜いてくれたらそれで十分で、今日も、明日も、正直に、ただ生きていく。

真実と向き合うということ

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かつて、自分はダニに食われながら眠った夜があった。 食べるものもなく、たった50円で一日をやり過ごした日もある。 缶詰だけで生活する家族の中で、自分という存在の意味を問い続けた。 その中で、自分を見失った。 何が正しく、何が真実なのか分からなくなった。 気づけば、魂を売り渡したような感覚に包まれていた。 それは比喩ではなく、自分の信じていたもの、拠り所にしていた信仰心を裏切る行為だった。 真実の心を守るために、逆にそれを隠し、偽りの中へと身を投じた。 だが、ある時はっきりと理解した。 真実とは、貧困ではない。金でもない。 そこに「愛」があるならば、 人を測る基準など存在しないはずだ。 人は見かけで判断する。 しかし、その判断はどこまで本質に触れているのか。 誰が、お前の一番恥ずかしい部分を知っているのか。 誰が、飾られた表面ではない本当の姿を見ているのか。 誰も見ていない。 だからこそ問う。 自分で気持ちがいいか? 自分で作り上げた自分を見て、心から満足しているか? 自分を本当に大切にしているか? 自分自身を理解しているか? そして何より、 心の底から自分を信じることができるか。 人は演じる。 優しさを演じ、正直さを演じ、理想の自分を演じる。 しかし、その裏で事実を知っている世界に対して、 どこまで隠し続けることができるのか。 真実は消えない。 すべては真実の上に成り立っている。         もし真実を恐れるならば、ここから去ればいい。 恐れに従い、自分が作り上げた群像の中で生きればいい。 だが、真実と向き合う覚悟があるならば、 そこには逃げ場はない。 それでも進むしかない。 なぜなら、 真実の心だけが、最後に残るものだからだ。

言葉を超えて ― それでも人はつながれるの

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もしも言葉が通じなかったら、何を使って自分を伝えるだろうか。 声が届かない世界。意味が共有されていない世界。そこでは「言葉」はただの音でしかない。では、人はどうやって相手に自分の存在を証明するのか。 私はまず、動くと思う。 手を差し出す。 目を見る。 同じ動きを真似る。 相手が歩けば歩く。座れば座る。笑えば笑う。怒れば距離をとる。 そこにあるのは「模倣」という最も原始的で、最も確実なコミュニケーションだ。 言葉がなくても、理解は始まる 未知の相手と出会ったとき もし相手が「未開」で、自分が少数派だったらどうするか。 私は主張しない。 まず観察する。 相手の文化、リズム、呼吸、距離感。 そのすべてを受け入れた上で、自分を少しだけ重ねる。 そして伝える。 「敵ではない」ということを。 その方法は単純だ。 攻撃しない。 奪わない。 同じことをする。 その先にあるのは、「対等」という関係だ。 言葉がなくても、対等は成立する。 私ならどう自己紹介するか 私は「愛」を使う。 特別な意味ではない。 行動としての愛だ。 ・相手の動きを尊重する ・同じ空間にいることを許す ・危害を加えない ・共に時間を過ごす それだけでいい。 名前もいらない。 肩書きもいらない。 存在は、行動で証明できる。 人それぞれの世界 言葉が話せない人がいる。 耳が聞こえない人がいる。 逆に、誰よりも敏感に音を感じる人もいる。 多く話す人。 ほとんど話さない人。 目で見る人。 感覚で感じる人。 それぞれが違う「世界」を持っている。 だからこそ、ひとつの方法で理解しようとすること自体が間違いなのかもしれない。 では、未来はどう作るのか 私はこう考える。 全員が同じになる必要はない。 同じ方向でなくてもいい。 同じ力でなくてもいい。 同じ方法でなくてもいい。 理解しなくてもいい。 協力しなくてもいい。 それぞれが、それぞれの方向で未来を作ればいい。 その結果が、交差する場所があれば、それで十分だ。 ひとりではないということ あなた方は1人ではない。 完全に孤立しているように見えても、 必ずどこかで誰かとつながっている。 それは言葉ではなく、行動かもしれない。 感覚かもしれない。 時間かもしれない。 つながりの形は一つではない。 最後に その未来に賭ける道とは何か。 それは「平和」だ。 争わず、否定せず、 違いをそ...